趣味趣味音楽の巨匠「大瀧詠一」に学べ!

このコラムは約8分趣味に没頭できます

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このコラムでは、偉大な作曲家を取り上げて、音楽に対する考え方や取り組み方、作曲手法や時代との関わりなどを、たのしく紹介していきます。

今回は、趣味趣味音楽の巨匠「大滝詠一(おおたきえいいち)」さん(1948年7月28日 -2013年12月30日)です。

作詞家、作曲家、シンガーソングライターを志す皆さん! プロデューサーを志す皆さん! そして、音楽を愛する皆さん!

大瀧さんの滝のような才能。受け止め切れますか!?

WooM(ウーム)!!!!!

 

 

趣味趣味音楽の巨匠「大瀧詠一」

2013年末、大滝さんの訃報が流れ、多くのファンが涙しました。享年は、余りに若い65才でした。

その名前や人となりは知らなくても、作品や彼が手掛けたアーティストは、誰でも知っているはずです。また、「はっぴいえんど」のボーカリストとして、その活躍を耳にしたことがある方も多いでしょう。

※「はっぴいえんど」については歴史に残る名曲「風をあつめて」でもご紹介しています。

大滝さんは、日本のポップス界に無くてはならない飛び切りの才人だったのです。

ここで代表曲とも言える1曲をご紹介いたします。

大瀧 詠一 – 君は天然色(1981年発表)

これまで知らなかった方でも、「あ、CMで聞いたことのある声だ!」と感じられたかもしれませんね。

また、このゴージャスで分厚いサウンドこそ、大瀧さんが敬愛して止まなかったフィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」です。

 

はっぴいえんど結成まで

大滝さんは、岩手県奥州市江刺区の生まれです。小学5年の頃、コニー・フランシスの「カラーに口紅」を聞き、アメリカンポップスに傾倒していきました。

そして、ラジオから流れるポップスはすべて聴き、お小遣いもすべてレコードの購入に充て、独自にポップス音楽の研究をしていました。当時(1959年頃)は、ラジオが音楽の檜舞台だったのです。

生前の大滝さんは、他の誰よりもアメリカンポップスに精通する研究家としても知られていました。そして、亡くなるまで生涯をポップスに捧げ、ぶれない人生でした。

1967年、大学受験に失敗し上京。紆余曲折を経て、大滝さんは、ミュージシャンとしての人生を歩き始めます。

翌年、早稲田大学第二文学部に入学し、友人の紹介で細野晴臣さんと知り合い、定期的にポップスの研究会を開きました。二人の天才の出逢いが、後の日本のロックやポップスの流れを変えることになるのです。

細野さん(ベース)のバンド仲間、松本隆さん(ドラム)、鈴木茂さん(ギター)を加えた四人は、日本語ロックの革命バンド!「はっぴいえんど」を結成しました。

はっぴいえんどでは、大滝さんはボーカルとギターを担当、その独特な発声・歌唱法と言葉をメロディーに乗せる際の洋楽センス満載のオリジナリティーで、新しい世界感を作り出しました。

1969年―1972年という短期間の活動でしたが、はっぴいえんどはいわゆる「日本語ロック」を定着させました。

もちろん、松本隆さんという言葉の天才が歌詞としての日本語の可能性を追求したことは言うまでもありませんが、大滝さんなくして日本語のロックは広まらなかったと確信しています。

ここで、その当時の大滝さんの歌声を聴いてみましょう。はっぴいえんど1枚目から「春よ来い」作詞は松本隆さん、作曲とボーカル(上パートのハモリも)を大瀧さんが担当しています。

はっぴいえんど – 春よ来い

 

はっぴいえんど解散後

解散後の大滝さんは、その趣味を徹底的に追求する希有な音楽家としての一生を送ります。自分の音楽を「趣味趣味音楽」と名付けるほど、その「趣味性」をある種、自由気ままに押し出していきました。

東京・瑞穂町の自宅を改造してスタジオ(福生45スタジオ)を作り、そこから音楽発信をはじめます。多重録音を駆使して、手始めにCMソングからスタート。

1973年のアサヒ三ツ矢サイダーのCMのヒットも有り、これを自分のレーベル「ナイアガラ」から発売をしました。

いわゆるアーティストがレーベルを持つのも、CMソングをレコード化するのも、共に日本人では初めてと言われています。

Cider ’73 ’74 ’75

大瀧さん得意のコーラスが、サイダーの爽やかさをイメージさせていますね! また、趣味趣味のアメリカンポップなサウンドが全編にきらめいています。

しかし、趣味性が強ければ強いほど、当時のメジャーでは認められませんでした。異分子を排除して趣味に徹するには、すべて自前でするのが1番です。

レコーディングでは、スタジオの整備からエンジニアリング、ミキシングといった専門分野の仕事もすべて大滝さん自身が行っていました。

ちなみに、レーベル名は、彼のアイドルであるフィル・スペクター(アメリカを代表するプロデューサー)がその名前をもじってレーベル名(フィレス・レコード)にしていたことから、大滝(大きい滝)のゴロ合せで、ナイアガラとしました。

もちろんアメリカのナイアガラ瀑布から来ています。大滝さんの仕事には、いたるところにダジャレが隠れています。それもそのはず、アメリカンポップスと同じくらい、大滝さんは日本の音楽にも精通していました。

1番好きだったのは、小林旭や三橋美智也! そして、クレイジー・キャッツの植木等さん。スーダラ節には大きな影響を受けています。駄洒落やお笑いは、ある意味、趣味趣味音楽の背骨でもあるのです。

ラジオで育った大滝さんは、75年、ラジオ関東で企画・選曲・DJまでセルフ・プロデュースする番組、「ゴー! ゴー! ナイアガラ」をスタートさせます。この番組こそ趣味の極地でした。

ニール・セダカ、キャロル・キング、エルヴィス・プレスリーから春日八郎、小林旭、クレイジー・キャッツまで好きな物しかかけないというコンセプト。

この後、さまざまなラジオ番組で、大滝さんは自身の考えや音楽を発表していくのです。YouTubeに、大瀧さんのラジオ番組「ゴー!ゴー!ナイアガラ」がアップされています。

ここでも、ご紹介いたしましょう。1976年の春の放送です。その優しい声を聴いているだけで、お人柄が忍ばれますね。

ちなみに、番組中1曲目に紹介しているのは、大瀧さん作詞作曲の代表曲「夢で逢えたら」(歌:吉田美奈子)です。これは一時期、日本で最もカバーが多い曲とも言われたことがある名曲ですね。

Go!Go!Niagara “Female Vocal and Eiichi’s Talk” 011

1979年にバグルスというバンドの「ラジオスターの悲劇」が世界的に流行りました(原題の意味:ヴィデオはラジオスターを殺す)

ラジオの時代は終わるというメッセージソングでしたが、どっこい、大滝さんの中ではラジオこそ未来永劫ポップスの王道なのです。

自分のレーベル「ナイアガラ」から発表したソロアルバム「ゴー!ゴー!ナイアガラ」(76年)は、そんな大滝さんらしい、ラジオ番組の特集というコンセプトで作られています。番組自体がラジオ放送という体(てい)です。

 

世界初のCD化されたアルバム「A LONG VACATION」

981年3月に発表された「A LONG VACATION」から大滝さんを知りファンになった人も多いと思います。発売1年で100万枚を超すという大ヒット。

しかも、その後、世界初のCD化されたアルバムともなり、名実ともに大滝さんの代表作となりました。(第23回日本レコード大賞・ベストアルバム賞受賞)

A_LONG_VACATION

音へのこだわりは半端なく、膨大な音楽の知識から、1曲を作るのに20曲もの歴史的な名曲のエッセンスを詰め込んだと言われています。

大瀧さんに「あの曲は3つの曲からの剽窃(パクリ)ですね」と訊ねると、「その3つとあと2曲の5曲から出来てるけど、君は3曲しかわからなかったんだ」と、逆に相手を責めるというジョークもあるほどです。


野口自身、前出のフィル・スペクターの傑作集アルバムを聴いたとき、流れる曲流れる曲から……大滝フレーズが、それこそ滝のように溢れてきて、驚いたことがありました。

もちろん逆で、大滝さんがフィルから影響を受け、リスペクトし、自身の血肉とした上で、大瀧メロディーの中にフィルのメロディーを流用しているのですが……。(汗)

そうして僕はますます、大滝さんが好きになったのでした。単なるパクリのえせ作曲家ではありません。

大瀧さんは、ポップスの原点は、こういった過去の天才の魂をメロディーやサウンドに乗せて、受け継いでいくことだと僕らに教え、それを証明してくれたのです。

もし、大瀧詠一さんの音楽が好きで、まだ、フィル・スペクターの楽曲をCDで聞いたことがないという方には、ぜひ、ご一聴をお勧めします。

もし、あなたがポップスのメロディーを書いている、あるいは書いてみたいなら、聴いてみてください。

このフィルのアルバムにはポップスのエッセンスがすべて詰まっていると言っても過言でないと断言しておきましょう。

つまり、ポップスの教科書になるのです。

 

楽曲提供

シンガーへの楽曲提供やプロデュースでも、大瀧さんの80年代は光り輝いていました。

松本隆さんとのコンビでの松田聖子のシングル「風立ちぬ」で初のチャート1位を記録。また、森進一の「冬のリヴィエラ」や小林旭の「熱き心に」など演歌系の歌手にも作品を提供。すべて、それらの歌手の代表曲となっているのです。

うなずきトリオのシングル「うなずきマーチ」(紳助・竜介、ツービート、B&Bのツッコミ=うなずきによって結成)の作詞作曲、金沢明子の「イエローサブマリン音頭」のプロデュースとお笑い路線にも抜かりがありません。

ここでは1982年に発表されたイエローサブマリン音頭を聴いてみましょう。(3回ほど繰り返し収録されています)

金沢明子 – イエローサブマリン音頭

 

訳詞に松本隆さん! 編曲に、クレージーキャッツの作編曲を担当した萩原哲晶さん! というこだわりの人選で、ビートルズを音頭にするという奇策をアートの世界に完結させました。この楽曲の仕上がりはまさにポップなアートです。大瀧プロデュースの真骨頂ですね。

本来、ビートルズの訳詞は当時も今も許可されていません。しかし、ポール・マッカートニーが大瀧プロデュースの本作を聴いて、直々にOKを出したと言われています。

1982年といえば、ビートルズデビュー20周年記念の年でもありました(実際、このシングルは20周年記念盤となりました!)

また、その2年前、ポールは大麻の不法所持で日本の警察にしばらくご厄介になったという経緯もありました……とにかくポールはOKしたのです。

ありがとう、ポール・マッカートニー。そして、大瀧さんは、ほんとうにいい仕事をされました。

 

プロデュース能力

プロデューサー大瀧さんという面で特筆すべきは、山下達郎さんの才能をいち早く見付け、世に送り出したと言うことです。

山下さんのバンド「シュガーベイブ」のデビュー・アルバム「SONGS」は、まさに大滝さんのプロデュースでした。共にポップスを究めた最強の師弟コンビです。


また、伊藤銀次さん、佐野元春さん、杉真理さんといった日本ポップス界の重鎮とも言えるアーティストたちも、また、大滝さんのフィルターによって世に出て行ったのでした。

佐野さんは、

「大滝詠一さんが亡くなりました。日本の音楽界はひとつの大きな星を失った。でもその星は空に昇って、ちょうど北極星にように僕らを照らす存在となった。大滝さん、ありがとう。ご冥福をお祈りいたします」

とメッセージを発表しました。

これは、多くのファンそしてミュージシャンが共感出来る内容でした。

確かに、生前より大滝さんは、日本のポップス界の指標となる、まさに北極星だったように思います。

 

自宅スタジオ

大滝さんの自宅スタジオには、温度と湿度がまるでワイン倉庫のように管理された「レコード部屋」があるそうです。数え切れないレコードコレクション。

大滝さんの知識と感性の故郷です。また、やはり数え切れないテレビの録画装置(当時はビデオデッキなど)が、すべてのチャンネルや番組を同時に録画しているのです。

徹底的に趣味に生き、趣味に人生を捧げた大瀧詠一さん! その音楽や魂は、ずっと我々の心の中で生き続けるのです。

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まとめ

デビューするなら、信頼できるプロデューサーと組んで制作をしたい……出来れば大瀧さんと……嗚呼。

※本原稿は、公募ガイド社昭和の青春ポップス(http://www.koubo.co.jp/iuta/)に寄稿したコラムに大幅に加筆したものです

野口 義修

投稿者プロフィール

音楽プロデューサー。
ベストセラーの『作曲本』(シンコー刊)や『楽しく学べる作詞作曲』(ナツメ社)の著者。
あみんの「待つわ」、雅夢の「愛はかげろう」、アラジンの「完全無欠のロックンローラー」、 伊藤敏博の「さよなら模様」......など多くの才能やヒット曲を世に送り出す。ヤマハ音楽院、昭和音大で作曲などの講師を歴任。

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野口 義修

音楽プロデューサー。

ベストセラーの『作曲本』(シンコー刊)や『楽しく学べる作詞作曲』(ナツメ社)の著者。

あみんの「待つわ」、雅夢の「愛はかげろう」、アラジンの「完全無欠のロックンローラー」、 伊藤敏博の「さよなら模様」......など多くの才能やヒット曲を世に送り出す。

ヤマハ音楽院、昭和音大で作曲などの講師を歴任。

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