永六輔の生き方に学べ!『上を向いて歩こう』作詞秘話

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偉大な作詞家を紹介するこのコラム。今回は、「上を向いて歩こう」の作詞で有名な作詞家……「永六輔」さんです。2016年7月7日、ご逝去された天才作詞家の人生、その作詞、作品などについてお話しましょう。

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永六輔さんって

さて、今回は、2016年7月7日にご逝去された作詞家の永六輔(1933年4月10日 - 2016年7月7日)さんをご紹介します。

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笑顔の永六輔さん

永さんは、中学の頃から、ユーモアのセンスや文才が光っていました。それが証拠に中学生時代から、当時人気番組だった『日曜娯楽版』という音楽娯楽ラジオ番組の常連投稿者だったそうです。早熟の天才だったのですね。

その永さんの才能を最初に認め、世に送り出したのは、日本の冗談音楽の雄・三木鶏郎(みきとりろう)さんでした。

18歳の時、三木さん主宰の才能集団「文芸部」に呼ばれ、プロとして台本を書くようになりました。

その頃の仲間と言えば、

  • 小沢昭一さん(俳優)
  • 野坂昭如さん(直木賞作家)
  • 五木寛之さん(小説家)
  • 中村八大さん(作曲家)
  • 井上ひさしさん(作家)

といった人たちです。全員が、20歳前後という才気あふれる若者たちでした。

その後の活躍をみれば、どれほど素晴らしい人材(若者)が集まっていたのかと驚かざるを得ません。そういった人材を見いだし、声をかけ、束ねて……日本のテレビ文化の礎(いしずえ)を築いた三木鶏郎さんの凄さもまた特筆モノです。

永さんが20歳の頃には、丁度、テレビの本放送が始まる頃(1953年)でしたから、永さんはNHKや日本テレビの構成企画、台本などを沢山手掛けました。

その頃、永さんは文芸部のメンバーとして……テレビの世界に彗星のごとく現れた黒柳徹子さんと出会っています。

人と人が出会うことで、何かが生まれ、文化の化学変化もおきる!

今の我々には、永六輔さんと黒柳徹子さんのいないテレビ文化など、想像も出来ませんね。日本人なら、お二人がテレビの世界に果たした功績の大きさは、みんな知っています。

 

中村八大さんとの出会い

1959年の初夏、日本のポピュラーの歴史において最も重要な出会いがありました。Lennon & McCartney の出会いと比べても、きっと皆さん賛同していただけると想います(汗)。

ことの起こりは、作曲家の中村八大さんが渡辺プロダクションの社長「渡邊晋」さんから……「映画用の新曲を10曲ほど、しかも翌日までに書くように」と発注を受けたことでした。

まだ、当時の八大さんは、作曲家としては何の実績もありませんでした。で、どうしたものかと、呆然と有楽町日劇の前を歩いていた……中村八大さん。

さて、ここで主人公の永六輔さんの登場です。その時、有楽町を歩いていた永さんは、偶然、八大さんと鉢合わせします。

早稲田大学の先輩の八大さん! すでに、その時点で八大さんは、日本屈指のジャズピアニストとして名をはせていました。

八大さんに、こう声をかけられました。

中:「君は、放送作家をしている永君じゃないか?」……すでに、永さんは、売れっ子の放送作家でした。先輩後輩は絶対的な関係です!

中:「だったら……作詞は出来るよね!!!!!!」

永:……「は、はい! で、できます」

……そして、まだ作曲の仕事しているわけではない若きジャズピアニストの八大さんと、

作詞など生まれて初めての永さんは、その夜……八大さんの家で、作詞作曲の共作を始めます。六八コンビの誕生です。

その夜に作った曲の中に、第一回レコード大賞、大賞受賞曲の「黒い花びら」があったっていうのは感動ものですね。その後、誰が「生まれて初めて書いた歌詞」でレコード大賞を受賞できたでしょうか? 

作詞家デビューや公募で優勝賞を狙っている方は……「永さんて天才だね」という結論で納得しないでください。

やりたいと想っていればチャンスはやってくるし、やってみたら出来た! というストーリーは、案外、誰にもありうる! そう信じましょう。

 

「上を向いて歩こう」のメロディーと歌に激怒!

奇跡の出会いの2年後、1961年7月21日、第三回中村八大リサイタルにおいて「上を向いて歩こう」が発表されました。

このとき、

  • 中村八大さん 30歳
  • 永六輔さん  28歳
  • 坂本九ちゃん 19歳

若い三人ですね。

ここで、永さんは激怒、激怒! リハーサルで初めて聞いた自分の書いた歌詞「上を向いて歩こう」が、

♪ふふぇふぉ向ぅいてぇ あ~るこうぅうぉううぉう……。

自分の思いを込めた歌詞を、メロディーと歌い方で台無しになされた! こんな下手な歌と歌詞に対するメロディーの組み立ても許せない!

と烈火のごとく怒り心頭だったそうです。

しかし、八大さんは取り合わず~~「これで、良いのだぁ」とバカボンのパパ風に泰然自若でした。

永さんは、テレビでは優しいおじさんのイメージしかありませんが、超短気の瞬間湯沸かし器だったそうです。テレビの生本番で、気に入らない事や許せないことがあると、「後はお任せします」とスタジオから帰ってしまうのです。

 

「上を向いて歩こう」は安保闘争の挫折の歌だった

八大さんから、「歩く歌」というテーマで歌詞を書いてくださいとオーダーがあったそうです。そこで永さんは、実際に自分もデモに参加した1960年の安保闘争での敗北をテーマに歌詞を書きました。それが、「上を向いて歩こう」です。デモの帰り道、泣きながら夜空を見上げた思い出の歌詞だったのです。

永さんは、安保デモに出るために、自分が台本を担当していた番組を降板しています。プロデューサーから、「君は、番組をとるかデモをとるか?」と詰問され……「デモをとります」と、番組降板。徹底的に硬派でした。

しかし、参加したデモ行進は蹴散らされ、安保条約は通過します。

その安保闘争の挫折の悲しみを綴った歌詞が……

♪ふふぇふぉ向ぅいてぇ あ~るこうぅうぉううぉう……

と歌われたのですから、怒りの鉄火巻きになったのですね。

後日、いろんな仲間や歌手から、あの歌はヒットするわ! と太鼓判を押され……しかも、全米1位となって、素直に自分が分かっていなかった! と認めたそうです。

 

中村八大さんとの作詞の約束

永さんと八大さんの間には、歌詞に関する約束が有ったそうです。

普段、自分たちが使っている自然な言葉だけで歌詞を作るということ! 

永さんは、ある意味、独自の方法論で作詞を始めました。なにしろ、上記のように、突然歌詞を書かなければならない状況に追い込まれたのですものね。

誰かに習ったとかではない、良い意味での自己流。だからこそ、それまでの古い歌詞のような、決まり文句の羅列やいかにも歌詞です! といった形式の言葉達は使いたくなかったのでしょう。

また、永さんは、若くしてラジオやテレビの構成作家(番組台本を書く仕事)を数多くこなしていました。それこそ、生きた言葉を紡がなければならない仕事です。そう、永さんは、話し言葉のプロ中のプロだったのです。だから、自分の一番得意な語り口で歌詞を書いたのですね。

ここで、永さんの初期の傑作というか、ほぼ処女作の「黄昏のビギン」の歌詞をご紹介しましょう。そう、永さんと八大さんが出会った夜に生まれた歌詞です。

水原弘 – 黄昏のビギン

・黄昏のビギン(作曲:中村八大 作詞:永六輔)

雨に濡れてた たそがれの街
あなたと逢った 初めての夜

ふたりの肩に 銀色の雨
あなたの唇 濡れていたっけ

傘もささずに 僕達は
歩きつづけた 雨の中
あのネオンが ぼやけてた

 

雨がやんでた たそがれの街
あなたの瞳 うるむ星影

夕空晴れた たそがれの街
あなたの瞳 夜にうるんで

濡れたブラウス 胸元に
雨のしずくか ネックレス
こきざみに ふるえてた

ふたりだけの たそがれの街
並木の蔭の 初めてのキス
初めてのキス

雨を暗さや寂しさの象徴にせず、気品のある色気というか、クリーンな恋の歌に仕上げていますね。天才に向って「さすがです」もありませんが、さすがです!

……と同時に、このメロディーの凄さはなんだ! と驚きます。洋楽ポピュラーのスタンダードのような美学がありますね。

ハ長調(Cメジャー)で考えると……サビ(ビートルズでいうミドル・エイト)で、ホ短調(Eマイナー)に転調。この新鮮で自然な転調が、曲の魅力を何倍にも膨らませています。

作詞家にとって、いかに作曲家が重要か! 作曲家にとって、いかに作詞家が重要か……。そんな事を感じさせる楽曲ですね。まさに出会いの素晴らしさです。

 

放送作家から作詞家

永さんは、1961年から1966年まで、『夢で逢いましょう』という NHK のバラエティー番組の作構成を手掛けます。番組で、毎月、六八コンビでの新曲を発表するのです。その中に、「上を向いて歩こう」もあり、レコード大賞を受賞した「こんにちは赤ちゃん」もありました。

デューク・エイセスの「おさななじみ」、ジェリー藤尾の「遠くへ行きたい」など、今でも歌いつがれている名曲を沢山残しました。

この辺りのくだりは、上を向いて歩こう作曲者、日本ポップス界の開祖「中村八大」に詳しく書きましたので、ぜひご覧くださいね。

放送作家が作詞を手掛けるという流れで想い出すのは、青島幸男さん、阿久悠さん、秋元康さん……の大物三人です。自分で歌詞を担当できるような番組を構成して、リアルにヒットを飛ばしてしまう! その流れの原点が、永さんだったのですね。

 

永さんといずみたくさん

永さんは、作曲家のいずみたくさんともコンビで、数多くの名曲を残しています。いわゆるエバーグリーンな名曲ばかりです。

  • 見上げてごらん夜の星を(坂本 九)
  • ともだち(坂本 九)
  • いい湯だな(デューク・エイセス、ドリフターズ)
  • 女ひとり(デューク・エイセス) 

ここで「ともだち」を紹介しましょう。

オリジナルは九ちゃんですが、クミコさんのカバーでお聴きください。

ともだち

・ともだち(歌: 坂本九 作詞:永六輔 作曲:いずみたく)

君の目の前の 小さな草も
生きている 笑ってる
ホラ 笑ってる

君の目の前の 小さな花も
生きている 泣いている
ホラ 泣いている

君が遠く見る あの雲も山も
生きている 歌ってる
ホラ 歌ってる

ふまれても 折られても
雨風が吹き荒れても

 

君の目の前の この僕の手に
君の手を かさねよう
ホラ ともだちだ

ふまれても 折られても
雨風が吹き荒れても

君の目の前の この僕の手に
君の手を かさねよう
ホラ ともだちだ

ホラ 歌おうよ
ホラ ともだちだ

永さんの人間の大きさ! 心の深さがストレートに伝わって来る歌詞ですね。また、永さんカメラ(目線)の動きも見事です。足元の小さな草花から、遠景の山々にカメラをパンし、そして、目の前の友だちの手にフォーカスします。自然と人間が一体になる瞬間を永さんカメラは、しっかり捉えていますね。スゴい!

そして、デューク・エイセスの歌う「女ひとり」の歌詞も見事としかいえません。「風情(ふぜい)」という言葉がこんなに似合う歌詞もそうはないでしょう。

・女ひとり(歌:デューク・エイセス 作詞:永六輔 作曲:いずみたく)

京都 大原 三千院
恋に疲れた女がひとり
結城に塩瀬の素描の帯が
池の水面にゆれていた
京都 大原 三千院
恋に疲れた女がひとり

京都 栂尾 高山寺
恋に疲れた女がひとり
大島つむぎにつづれ帯が
影を落した石だたみ
京都 栂尾 高山寺
恋に疲れた女がひとり

京都 嵐山 大覚寺
恋に疲れた女がひとり
塩沢がすりに名古屋帯
耳をすませば滝の音
京都 嵐山 大覚寺
恋に疲れた女がひとり

友だち同士であった作詞の永六輔と作曲のいずみたくさんが、1966年から1969年にかけて日本中を旅してご当地ソングを作るという『日本のうた』シリーズの1曲です。レコード大賞では、企画賞も受賞しています。

そして、『日本のうた』シリーズ終了後、永さんは「六輔さすらいの旅・遠くへ行きたい」という番組を始めます。これは今でも「遠くへ行きたい」というタイトルで続いている人気企画です。共に、永さんのスケールの大きさが偲ばれる企画ですね。

 

永さんの含羞(がんしゅう)

永さんのようなモンスター級の存在、そしてその歴史をたった数千字の駄文に押し込むことなど到底不可能です……と、我が文才のなさを棚に上げて、言い訳をするしかありません。野口赤面です。

永さんの原点にも、赤面の想いが常にあったようです。永さんは、それをご自分で含羞(がんしゅう)と表現されています。含羞とは、恥じらいとかはにかみといった意味合いです。

永さんは、若き日の「文芸部」時代のまま、どこの組織にも属さず、自称「メディアの吹きだまり」として、日本を愛し、見つめてきたのです。

それは、永さんの師匠、三木鶏郎さんが「どこにも属さず、『日曜娯楽版』で痛烈な風刺コント」を書いていた……その背中をみて育ったからでしょう。当時の仲間、野坂昭如さんも小沢昭一さんも、井上ひさしさんも、みなそうでした。

永さんは、あるインタビューで、

僕は彼らの背中をみて歩き、前に出なければ間違うことはないと思って生きてきた。作詞をしてヒットするとやめ、本を書いてベストセラーになるとやめる。恥ずかしいから。含羞(がんしゅう)です。

と語っています。

実際、世界のテッペンをとった作詞家、永さんも1970年代以降、ほとんど作詞をしていません。

また、1994年には200万部を超える大ベストセラー『大往生』を発表しますが、それ以降、出版に関しては、グッと上梓が減っています。

永さんは、

等身大でいられるラジオは続けている。テレビは大きくみえたり、ゆがんで見えたりするから。

とも語っています。すべて含羞の想いからなのです。

 

まとめ

永六輔さんのご冥福をこころからお祈りいたします。永さんが、生きて作品をのこし、語ってくれた、その時代をリアルタイムで共に過ごせた自分たちは、本当に幸せだったと、今感じています。

ありがとう、永さん。

上を向いて歩こう作曲者、日本ポップス界の開祖「中村八大」もぜひご覧くださいね。

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野口 義修

投稿者プロフィール

音楽プロデューサー。
ベストセラーの『作曲本』(シンコー刊)や『楽しく学べる作詞作曲』(ナツメ社)の著者。
あみんの「待つわ」、雅夢の「愛はかげろう」、アラジンの「完全無欠のロックンローラー」、 伊藤敏博の「さよなら模様」......など多くの才能やヒット曲を世に送り出す。ヤマハ音楽院、昭和音大で作曲などの講師を歴任。

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野口 義修

音楽プロデューサー。

ベストセラーの『作曲本』(シンコー刊)や『楽しく学べる作詞作曲』(ナツメ社)の著者。

あみんの「待つわ」、雅夢の「愛はかげろう」、アラジンの「完全無欠のロックンローラー」、 伊藤敏博の「さよなら模様」......など多くの才能やヒット曲を世に送り出す。

ヤマハ音楽院、昭和音大で作曲などの講師を歴任。

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