60年代にポップスの黄金時代を築いた天才訳詞家「漣健児」

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このコラムでは、偉大な作詞家を取り上げて、音楽に対する考え方や取り組み方、作詞手法や時代との関わりなどを、たのしく紹介していきます。

今回は、60年代に訳詞ポップスの黄金時代を築いた「漣健児(さざなみけんじ)」さんです。

 

日本ポップス界の革命児「漣健児」

漣健児(さざなみ けんじ 1931年2月4日 – 2005年6月6)さんは60年代にポップスの黄金時代を築いた天才訳詞家です。

訳詞とは、外国語の曲に母国語(日本語)の歌詞を付けることを指します。つまり翻訳した歌詞ですね。

まずは、漣さんが訳詞を手掛けた1962年の大ヒット曲「ルイジアナ・ママ」をご紹介しましょう。

映像は、当時のものではなく、ずいぶん後年のもののようです。訳詞が表示されるので、読みながらお聴き下さい。

飯田久彦 – ルイジアナ・ママ

「ビックリ仰天有頂天」「あたりきしゃりき」「誰にもよろめかぬ」「恋の手管」などは、古めかしい言葉をロックに乗せるという斬新な手法で、当時としても言葉が新鮮に響きました。

漣さんは、言葉の響きとリズムの面白さを知り尽くしていたのです。

 

漣健児のキャリアスタート

さて、漣さんは本名を草野昌一(くさの しょういち)といって、音楽出版社シンコーミュージック・エンタテイメントの元会長で、日本の著作権ビジネスを今の形に育て上げた最大の功労者です。

早稲田大学に在学中(2年生 19才)、父親の経営する新興音楽出版社(現:シンコーミュージック・エンタテイメント)で雑誌「ミュージック・ライフ」を復刊し、その初代編集長を務めたことからキャリアをスタートさせました。1951年のことです。

実は、野口の「作曲本」は、このシンコーさんから出版させていただきました。2016年に18版を迎えました。シンコーさんには、本当にお世話になっています。

 

「ミュージック・ライフ」復刊のいきさつ

「ミュージック・ライフ」復刊のいきさつは、漣さん自身が欧米からやってくる先端のポピュラーミュージックに接していたいという想いが強かったからだそうです。

1950年代には、ビルヘイリーと彼のコメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」という曲からロックンロールのムーブメントが生まれるという、いわば音楽革命がおこりました。

その後も、エルヴィス・プレスリーというロックンロールの巨人が登場し、その勢いが日本を直撃、日本でもロカビリーブーム(ロカビリー三人男/平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチス)が起こるなど、ポピュラーミュージックの人気は衰えることを知りませんでした。

それを情報面から支え、牽引したのが「ミュージック・ライフ」だったのです。

漣さんご本人は、この雑誌を同人誌的な感覚で始めたそうですが、十代の男子学生の思いつきが日本のポピュラーミュージックを変えていったとしたら、この若者は天才と呼ばれるのに相応しい才能を持っていたと言えます。

 

漣健児は売れる曲をかぎ分ける目利きプロデューサー

さて、新興音楽出版社は、本や楽譜集などの出版だけでなく、音楽著作権の管理という仕事もしていました。世に出ている楽曲の大半は、 どこかの音楽出版社がその権利を管理しているのです。

管理楽曲が売れれば、出版社に作詞作曲家と同じ額の著作権収入が入るのですから、音楽出版社としては、より良い楽曲を発掘したいし、より良い作家と契約を結びたいのです。

楽曲を管理する出版社の大半は、作曲家1/4、作詞家1/4、出版社1/2という配分で印税を管理しています。売れる曲を管理すれば、莫大な収入があることは想像に難くないですね!

つまり、出版社には、売れる曲をかぎ分ける目利きのプロデューサーが必要という訳です。まさに、漣さんには、その眼力があったのです。

60年代の音楽業界の作詞家・作曲家は、基本的にはレコード会社の専属でした。Aレコードの所属タレントは、Aレコード専属の作家さんの歌しか歌えないのです。

しかし、当時ポピュラーブームが起きたのに、専属作家で、ロックンロールやロカビリーといったメロディーやそれに合う歌詞を得意とする人は、あまりいませんでした。

なにしろ、60年代といえば、演歌や歌謡曲の時代です。ファンや時代、社会が求める新しい楽曲を量産できる作家さんが、いなかったのです。

そこで、カバー・ポップスという秘密兵器が大活躍するのです。アメリカやヨーロッパで流行っている楽曲を日本に持ってきて、それを日本語に訳詞し、日本人の若手シンガーに歌わせる。

この翻訳詞のスタイルを、漣さんは、アダプテーション(翻案、脚色、訳詞)と呼んでいました。

洋楽ポップスのメロディーと日本語のリズムがバッチリ合ったとき、そのカバー曲は大ヒットするのです。それには、訳詞の面白さやカッコよさが必須でした。

この難しい訳詞の仕事を一手に引き受けていた天才訳詞家こそ、漣健児さんだったのです。

 

漣健児の作詞術

漣さんが訳詞を手がけた、女性ポップス・シンガー、

  • ピーナッツ
  • 中尾ミエ
  • 伊東ゆかり
  • 森山加代子
  • 田代みどり

男性ポップス・シンガー、

  • 坂本九とパラダイスキング
  • 飯田久彦
  • 鈴木やすし

これらシンガーの楽曲は、どれもが大ヒットし、日本はカバー・ポップスの黄金期を迎えました。

ここで、一曲ご紹介しましょう。なんと、元歌のシンガーが漣さんの訳詞をカバーしているというバージョンです。

コニー・フランシス – 可愛いベイビー

アメリカの歌姫、コニー・フランシスの大ヒット曲「Pretty Little Baby」の訳詞ソングですね。

作詞家的に言うと「プリ・ティ・リ・トル」という英語の発音で4音節のところに、漣さんは「かわいい」とか「わたしの」という4音の言葉を乗せています。それが気持ちよく耳に届くのです。

原曲を聴くと、漣さんの凄さが分かります。英語の可愛らしさやビート、アクセント、ニュアンスをいささかも崩すことなく、素敵な日本語にアダプテーションしています。なかなか凄いです。こんどは、英語版です。

Connie Francis – Pretty Little Baby

漣さんが、最初に訳詞したのはクリスマスソングの定番、誰でも知っている「赤鼻のトナカイ」でした。(1959年「新田宣夫」名義で発表)

「♪まっ赤なお鼻の~ トナカイさんは~」って歌ですね。漣さん、28才頃の作品です。若い頃から活躍されたのですね。

そして、漣健児名義での最初の仕事、つまり訳詞家としてのプロデビューは、坂本九ちゃんのデビュー第2弾のシングル「ステキなタイミング」でした。

オリジナルは、日本では売れていなかったアメリカのシンガー、ジミー・ジョーンズの作品だったのですが、健児さんの訳詞で、大ヒットとしました。

健児さんは、あまり原詞の細かい所は気にせず、いかにメロディーに乗る日本語にするかを重要視しました。「リジナルの意味をある程度無視して書いた 超訳” 」(本人談)なのです。

坂本九 – ステキなタイミング

・坂本九「ステキなタイミング」(作詞作曲:トビアス・バラード 訳詞:漣健児)

オー ユー ニス タイミング
アー ティカ ティカ ティカ グッドタイミング
トカ トカ トカ トカ
この世で一番かんじんなのは
ステキなタイミング

目の玉 ギョロギョロ光らせた
教師の目の前で
カンニング すばやくやるのにも
いるのはタイミング
(※くり返し)

僕のかわいい フィアンセの
目をごまかしながら
コッソリ 浮気をするのにも
いるのはタイミング
(※くり返し)

火の玉投手のドロップに
バットをちょいと合わせ
逆転ホーマー打つのにも
いるのはタイミング
(※くり返し)

ガンコオヤジが可愛がる
箱入りムスメを
コッソリ デートにさそうのも
いるのはタイミング
(※くり返し)

この訳詞の凄いのは、原曲には「カンニングも浮気も、逆転ホーマーもこっそりデート」もなにも出てこないと言うことです。

つまり、訳詞という名の創作です。元の歌詞より、こっちの方が100倍楽しいです! まさに「超訳」ですね。

 

漣健児が手がけた作品数

漣さんが手がけた作品は、

  • 飯田久彦「ルイジアナ・ママ」
  • ナット・キング・コール「L-O-V-E」
  • 中尾ミエ「可愛いベイビー」
  • ザ・カーナビーツ「好きさ好きさ好きさ」「オブラディ・オブラダ」
  • 弘田三枝子「子供ぢゃないの」「すてきな16才」「ヴァケーション」
  • 多くのアーティストが歌った「恋はみずいろ」「悲しき天使」

など、総数は400以上。

凄いです。

個人的な思い入れ100%で選ぶ日本のビートルズ6選で紹介した東京ビートルズ「抱きしめたい」も漣さんでした。

漣さんのオフィスには、訳詞を依頼するレコード会社のディレクターたちが毎日、列を作って待っていたという伝説があります。

健児さんの訳詞があれば、ヒット間違い無しという安心感と信頼感が、業界の中にはあったのでしょうね。

 

漣健児の人の才能を見抜く

漣さんは、素晴らしいプロデューサーでもありました。作曲家、浜圭介さんの作家としての才能を認め、名曲「終着駅」を生みだすキッカケをつくったのは、他ならぬ漣さんでした。

また、自分の後継者として若き安井かずみさんを、作詞家として育てたのも、漣さん。

福岡にいたチューリップを見出し、世に送り出したのも漣さん。

漣さんは、人の才能を見抜く目利きに長けていたのです。

 

漣健児が日本のポップスシーンを彩った要因

漣さんは、日本ポップスシーン最重要人物のお一人ですが、そこに至るまでには、さまざまな要因があります。

  • 音楽雑誌「ミュージック・ライフ」で海外のアーティストや楽曲状況を集め、把握できる立場にあったこと
  • 出版社として、海外のヒット曲を自社で著作権の契約管理できる立場であったこと
  • 素晴らしい訳詞や作詞の才能を持っていたこと
  • 実の弟、草野浩二さんがレコード会社(東芝)のディレクターとなり、坂本九の「上を向いて歩こう」を世界でヒットさせた実力者であったこと

こうした、才能や環境(立場)が融合したことで、これほどの影響力を発揮されたのだと思います。

さあ もう一度、漣健児さんの手がけた名曲の数々を聞いてみましょう!


このCD、作詞家志望の皆さんなら必携です。

漣さんの訳詞の世界を知ることができます。

 

まとめ

この世で一番かんじんなのはステキなタイミング。

これに尽きますね。

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野口 義修

投稿者プロフィール

音楽プロデューサー。
ベストセラーの『作曲本』(シンコー刊)や『楽しく学べる作詞作曲』(ナツメ社)の著者。
あみんの「待つわ」、雅夢の「愛はかげろう」、アラジンの「完全無欠のロックンローラー」、 伊藤敏博の「さよなら模様」......など多くの才能やヒット曲を世に送り出す。ヤマハ音楽院、昭和音大で作曲などの講師を歴任。

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野口 義修

音楽プロデューサー。

ベストセラーの『作曲本』(シンコー刊)や『楽しく学べる作詞作曲』(ナツメ社)の著者。

あみんの「待つわ」、雅夢の「愛はかげろう」、アラジンの「完全無欠のロックンローラー」、 伊藤敏博の「さよなら模様」......など多くの才能やヒット曲を世に送り出す。

ヤマハ音楽院、昭和音大で作曲などの講師を歴任。

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